ポンド危機 用語

ポンド危機

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ポンド危機(ポンドきき、: pound crisis)とは、1992年9月16日水曜日)にイギリス通貨であるポンド為替レートが急落し、翌日に英国が欧州為替相場メカニズム(ERM)を離脱した一連の出来事である。ブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)、もしくは逆にホワイト・ウェンズデー(白い水曜日)とも呼ばれる[1]

背景[編集]

もともとポンドは世界の基軸通貨であったが、第二次世界大戦後その地位は失われた。また、イギリス経済はストップゴー政策と呼ばれる経済政策の迷走の結果、英国病といわれるほどの経済的低迷状態にあった。[要出典]

イギリスの経常収支は1960年代から北海油田の採掘が始まり1980年代には純原油輸出国であったことから原油価格高騰時は黒字であったが、基本的に赤字基調となりつつあった。そのなかで、EC(欧州共同体)では域内通貨の統合に向けて域内通貨間の為替レートを事実上固定するEMS(欧州通貨制度)とERM(欧州為替相場メカニズム)を進めていた。

マーガレット・サッチャーはERM加盟には反対だった。サッチャー自身は、(資本移動が自由な場合に)独自の金融政策と為替レート目標とが両立し得ないことを理解していた(国際金融のトリレンマ)。サッチャーは、英国の主な金融政策が英国財務省等ではなくドイツ連邦銀行によって決められる制度を採用すべきではないと考えていた[2]。サッチャーの経済顧問アラン・ウォルターズは、英国がERMに参加すればスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力は高まるだろうと考えており、ERM加入には反対の立場だった。だが最終的にサッチャー政権は1990年にERM加入を決定した[2]

経緯[編集]

発端[編集]

サッチャー政権後期の拡張的金融政策で失業率も改善傾向だったが、ERM参加後に再び悪化し、1992年には10%近くまで失業率が上昇した。景気は大きく後退し、会社の倒産は(1931年以降)記録的なものとなった[1]

そしてウォルターズの予想通りポンドは投機攻撃の対象となった。1990年10月に東西ドイツが統一されて以来、旧西ドイツ政府による旧東ドイツへの投資が増加し、欧州の金利は高目に推移していた。高めの金利は欧州通貨の増価をもたらした。ERMによって欧州通貨と連動したポンドは次第に過大評価されていくことになり、持続可能性を喪失していった。ERMに留まるには英国は金利を上げざるを得なかった[3]。 高金利は英国経済を害した。ルールに反し、ドイツ連邦銀行はポンド防衛にまわらなかった。ここで英国人達の欧州懐疑論が深く心理に残るものになった[3]

これに目をつけたのがジョージ・ソロスである。ソロスは「相場は必ず間違っている」が持論であり、このときもポンド相場が実勢に合わないほど高止まりしていると考えた。そして、ポンドを売り浴びせ、安くなったところで買い戻すという取引を実行することになる。

その時の支配的な意見は英国はERMに留まるべきというものだった[4]。当時の首相ジョン・メージャーはERM加入は誤りだったと認めようとせず、ERM離脱は英国の未来の裏切りだと述べた[1]

展開[編集]

1992年9月になり、ポンドへの売り浴びせは激しさを増した。

9月15日には激しいポンド売りにより変動制限ライン(上下2.25%)を超えた。

9月16日にはイングランド銀行がポンド買いの市場介入に加えて、公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらにその日のうちにもう一度引き上げ15%とした。しかし、それでも売り浴びせはとまらなかった。事実上のERM脱退となったこの日はブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれている。

9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行した。

ERM離脱以降[編集]

ポンドはその後も1995年まで減価を続けた。

ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドは10億〜20億ドル程度の利益を得たといわれる。

翌年の1993年には欧州各国に通貨危機が飛び火し、ERMは大幅な再編を迫られることとなった。1992年9月のERM離脱によりイングランド銀行および大蔵省は不名誉な敗北を喫した格好に見えたが、1992年の下半期からイギリス経済は他の西欧諸国に先がけて景気回復に向かい、1993〜1994年と順調な拡大を続けた。

その原動力になったのが1992年9月・ERM離脱以降の金融緩和による家計部門の耐久消費財支出の伸張であり、ERM離脱以降、ポンドが主要国通貨に対して大幅に減価したことによりイギリス製品の価格競争力が高まったことなどから輸出は大きく拡大した[5]。 1997年には同様にヘッジファンドによる通貨空売りが東南アジアで発生しアジア通貨危機となった。

ERMはポンド危機による再編後、1999年には統一通貨ユーロへと結実している。だがリーマンショック後のユーロ圏PIIGS諸国をはじめ多くの労働者を失業という苦境に追い遣っている。 なお、イギリスはこのユーロに2019年現在も参加していないが、大陸欧州との通貨統合の試みにより不名誉をこうむったポンド危機の記憶と無関係ではない。ソロスの動機はもちろん収益を上げることであり英国を救うというものではなかったが結果的に英国をユーロ圏の外に位置させることになった[3]

白い水曜日[編集]

黒い水曜日が起こり英国がERMから離脱した際に、その日は英国にとっての屈辱だと考えられていた。だが英国経済はそこから回復したのである。 ドイツマルクと為替レートを収斂させる必要がなくなり、金利はすぐに下がり、借入れコストは減少した。英国債の短期金利も危機以前は約10%台で変動していたが、約7%程度で推移するようになった。為替レートに関しても1992年には1米ドル約0.57ポンドだったものが翌年には約0.67ポンドまで減価した[6]

  ドイツマルクのUSドルに対する為替レート(1990年時を100とした場合)  スターリング・ポンドのUSドルに対する為替レート(1990年時を100とした場合)

失業率は1993年に約10%となって以降、着実に改善し、5年後には約6%にまで低下した。 実質経済成長率も1991年にはマイナス、1992年には約0%であったが、翌年には2%台にまで上昇した[7]。その後も少なくとも2%台の経済成長は続いた。ERM離脱によって英国経済は改善したことになる。ゆえに多くの経済学者がその日を白い水曜日(White Wednesday)と呼んでいるのである[4]

  英国の失業率(%)  英国の実質経済成長率(%)  英国の商業銀行の貯金金利(%)  英国短期国債の金利(%)

国家財政委員会報告[編集]

2005年に情報公開法(Freedom of Information Act)により明らかにされた報告によると、1997年の時点からの集計で損失は34億ポンド(実質33億ポンド)とされる[8]。それまでの推定では130億から270億ポンドとされていた。1992年の8月と9月のトレード損失は8億ポンドと見積もられているが、この過程でポンドの減価が生じているため対外通貨建てでの損失(減価)は全ポンド所有者に拡散された。フィナンシャルタイムズは政府が外貨売りポンド買いの市場介入を行わずに240億ドルの外貨準備高を維持したままこの危機を通過したなら、24億ポンドの利益が上がっただろうと報道した[9] 。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. a b c White Wednesday changed politics utterly: I'll be celebrating the anniversary with a reunion in OxfordD. Hannan, The Daily Telegraph, 18 Aug 2012
  2. a b M. Thatcher, The Downing Street Years, Harper
  3. a b c Everyone in the UK should be thanking George SorosJ. Warner, The Daily Telegraph, 14 Mar 2014
  4. a b Greece should remember the lesson of Black WednesdayThe Spectator, 20 June 2015
  5. ^ 経済企画庁 (1995年12月15日). “平成7年 年次世界経済報告”. 内閣府. 2008年9月13日閲覧。
  6. ^ IMF, International Financial Statistics, Vol. XLVII, No. 2, Feb (1994)
  7. ^ IMF, International Financial Statistics, Vol. LIII, No. 9, Sep (2000)
  8. ^ Tempest, Matthew (2005年2月9日). “Treasury papers reveal cost of Black Wednesday”The Guardian (London) 2010年4月26日閲覧。
  9. ^ Financial Times, 10 February 2005

関連項目[編集]

-ポンド危機, 用語